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寒空をものともせず、ふたたび先週木曜日に吉祥寺シアターへ向かいました。今回の出し物は『エレクトラ オレステスを待ちつつ』です。
最初の一撃は、車椅子の半裸の男たちがもたらしました。彼らは奇妙な行動で舞台を駆け回り、一瞬にしてシアターの内部を地上の世俗空間から切り離すことに成功します。彼らは瞬く間に虚構の空間を作り上げ、私たちは虚構と現実の境界に連れ去られました。こうしたアンバランスな場所にこそ現実の裂け目があり、真実が顔を出すのです。この感覚は、水戸芸術館で鈴木さんの劇を見たときに覚えたものであることが思い出されました。 劇は言語を超えていました。鈴木忠志の演劇空間は役者の肉体と、パーカッションの響き、そして濃密な空気によって成り立ち、そこでは言語の存在はミニマムでした。事実主演女優が韓国語で話していても全く気にならないのでした。私は最上段のバルコニーで見ていたので劇場空間全体を見渡していたのですが、空間全体は透明でありながら密度の高い気体で満たされているような気がしました。 1時間ほどの間にかなり体力を消耗しました。鈴木さんの劇の力に感服させられました。こうした体験は、今年の夏のパリのアニッシュ・カプーア展以来です。口あたりが良いアートばかりが横行している昨今、現実に裂け目をつくり真実をのぞかせるような強烈な創造行為をすること、これこそがアートの原点であると、再認識させられました。 SCOTの重政さん、今回の公演を教えていただきありがとうございました。 ![]()
昨日土曜日は、仙台の長町アートインクルージョンに行きたかったのですが、諸般の事情で行けませんでした。そこで、午後からお台場のエコプロダクツ2011に行きました。今年の11月にカタールのドーハで、ecoQ2011(環境に関する展示会)の日本パビリオンをプロデュースしたので、お勉強に行きました。カタールに参加した大成建設、LIXIL、三菱自動車(三菱重工)、シャープを中心に見学。しかしあまりの人出の多さに驚愕。土曜の午後を過ごす家族連れでいっぱいなのです。子供向けのプログラムがあちらこちらで行われていました。エコはまず子供から、ということなのでしょうか。ecoQ2012の参考になりました。新年早々は、アブダビのワールド・フューチャー・エナジーにも行く予定。環境とアートの接点を探ります。
![]() 今日(日曜日)は、快晴の葉山美術館でベン・シャーン展を鑑賞。ベン・シャーン展をはるか昔に見た記憶があったのでカタログで調べたら、昔の展覧会は1970年東京国立近代美術館とありました。高校生のときでした。そのときのことをよく覚えています。昔は展覧会少なかったので、こうした展覧会を食い入るように見たのです。情報誌「ぴあ」もでたばかりで、ぺらぺらの冊子だったような気がしますが、貴重な情報源でした。ベン・シャーンは、藤田嗣治が戦後ニューヨークで教鞭を取ることになった際に反対運動を起こしました。藤田が戦争画を描いたからです。藤田の真意を知っていてくれたら良い交流ができたかもしれません。線の種類は対称的ですが、ともに良いドローイングを描きます。ニューヨークのニアミスでした。 ![]()
大学でともに芸術系を担当している尼ヶ崎彬教授から近著『近代詩の誕生 軍歌と恋歌』を頂戴し、読み始めています。これがとても面白い。明治という時代にどのようにして芸術家が想像力を解放していったか、「詩」というジャンルの確立を通じて語ってくれています。明治の「美術」の誕生と同時並行の進行であり、森鴎外と戸山正一の論争などはまさに美術がらみです。想像力の解放という点で、昨晩観た鈴木忠志演出の『別冊 谷崎潤一郎』は示唆的でした。劇中に谷崎自身と思われる人物が登場し、その頭の中から生まれた人物たちが劇を演じます。芸術家の存在と作品の存在が交錯し、とくに後半は谷崎が自分の創造した人物を尋問する進行となります。芸術家の想像力が生み出したものとの関係。作品は自分の頭から(造形作家は手から)生まれながら、独自の生命を得て行く様が面白い。明治の近代文学の論客たちが夢見た、「近代芸術としての文学」を実現した作家であると思います。鈴木さんの劇は久しぶりでした。水戸芸術館の芸術監督時代は、鈴木さんは隣の演劇部門のトップでしたから良くみせていただきました。今回は利賀村から出て、吉祥寺シアターで連続上演です。チラシの異様な風体の役者たちのいでたちを見て、急に見たくなりました。日常に異常なものは必要です。12月25日まで『谷崎』と『エレクトラ』を交代で上演しています。是非観て、ご自身の想像力を解放してください。尼ヶ崎先生の本『近代詩の誕生 軍歌と恋歌』は大修館からでたばかりです。
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今日ようやく畠山直哉の展覧会Natural Storiesを見に行きました。冒頭に私が企画した『二つの山』プロジェクトのために撮った作品が出ていると、当時プロジェクトを担当した私のスタッフの舟越から聞いていたのですが、静謐な世界にたちまち惹き込まれました。畠山は自然と人間との関係のなかに自然を見ています。『二つの山』の際に、ベルンの山岳博物館と実物の山と両方撮ったことは象徴的です。スイスの山岳観光は啓蒙主義の時代に始まり、奇しくも博物館の発生と根を同じにしています。写真自体も啓蒙主義のおとし子です。啓蒙主義は百科全書によって宇宙をカタログ化することを試みましたが、そのプロセスは19世紀に写真へとたどりつきます。写真とは広大な森羅万象を箱に閉じ込め、平面的な図像化し、整理分類し、コレクションするという欲求から生まれたといっても過言ではありません。(展覧会の最初部分にひっそりと展示されているカメラルシダによる山のスケッチはその歴史的展開の名残です)その写真をつかって畠山は、自然を畠山流にカタログ化することを試みています。畠山流というのは、畠山の自然は、人間が観察するだけの自然ではなく、すべて人間がtravaillerした、つまり働きかけた自然であるということです。登山、炭坑、爆破、蒸気。これらは全て人為です。そしてご尊母を亡くされた陸前高田の津波。自然と人間のぶつかりあう最前線の、最もなまなましい傷跡が写真となっています。悲痛な体験を昇華し、自然と人間の関係史のなかに位置づける試みはアーティスト魂そのものです。まだ見ていない人は至急見に行ってください。12月4日までです。
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